+ 2年半。
2年半経った。
>まだ毒が抜けてなくて、気持ちが死んでる状態。
と書いた2014年の年始。
そうだったそうだった。あれから丸一年は酷い状態だった。大きく動くと天から雷に打たれそうで、罰を受けそうで(流石に比喩だ)、自由なのに何かに閉じ込められてた。
自由なのに何も出来なかった。生活を仕切りなおすだけのお金もあるのに食器の一枚も買えず、床に胡坐をかいてスーパーのお惣菜を食べる日々だった。まわりに楽しいお店が沢山あるのに、観光地や綺麗な景色も沢山あるのに、自分は行ってはいけないと感じていた。
きっかけは何だろう?2012年ごろから始めた趣味が定着して、実り始めたところかも知れない。
それとも逃げ出すという行為が正解だったからかも知れない。お手軽なカウンセリングに愚痴ったり、悪あがきの成果が時差で出て来たからかも知れない。誰かに助けられたからかも知れない。
今は、いまさらだけど自分の周りに沢山の扉が開かれているように感じる。閉じている扉も、半分くらいはノックしたり話しかけたり待ったりしたら開いてくれるかも知れないと感じてる。
本当、何、この変わりよう。
母親と娘という関係は難しいと思う。子供と接する時間は絶対的に母親に比重があり、母親が娘を見る時に「私がこの年齢の頃は」という視点から自由になるのは難しいのかも知れない。
世間一般でいう「自立しろパラサイトシングル」という意味とは全く関係なく、むしろ逆の意味で「未婚の娘さんはキリの良いあたりで自立しなさい」と思う。未婚だと世代交代が出来ないままオバサンになり、お婆さんになっても、大黒柱たる働きをしたとしても前時代的な母娘の関係と母親の価値観に縛られてしまうからだ。そしてそれを「良い娘」と形容されるからだ。まぁ賢い娘さんなら、こんな事にはならないんだろうけどね(笑)
一過性のものかもしれないけど、ここ暫く、幸せにやってます。
+ 2013年
何の進歩もなかったようで、あった事を並べると結構出て来るのは、きっと歳を取った証拠。
友人の突然死。悪夢のような電話。
ほぼ絶縁状態になった幼馴染が一人。
家族との絶縁。
書いてみると、別れが多かった2013年。
7月に行った占いで「今年は別れの年」と言われて、「別れは3年ほど前に済ませたけどなぁ」って思ったけど、どーしてなかなか当たってたのかも。
2012年に習得した新しい技術の汎用化。
昇進と昇給。
ダイエットとリバウンド。ちょっと酒量が増えたかも。塩分と。
ちゃんと続いているジョギング。
引っ越し。本の大量処分。電子化して本棚は食器棚へ。親が本を大量処分した歳と同じくらいだな。
昔の写真や手紙のデジタル化。
曲がった小指がどうしようもないフィドル。フィドルだから大丈夫だきっと。
ちゃんと続いているボランティアは3年目。
まだ毒が抜けてなくて、気持ちが死んでる状態。
2014年の目標は・・・
とりあえず春と秋で資格試験受けてみよう。
あと・・・13年は放ったらかしにしてきた心の整理と。
+ ボタニカラーとりあえず2ヶ月目
20代に入った辺りから白髪が増え始めて、ここ数年は3週間に1度染めに行ってるのだけど、それだと実質、綺麗なのは1週間くらいなのよね。
3週間目なんかは分け目変えたり、見ないようにしたりで凌ぐ感じ。
日々、ちょいちょい染まっていってくれればなと思って購入・・・結局染まらないまま2ヶ月が経過。スマン、リピートしないでおくよ。でも備忘録として。
レビューの通りの絵の具のような茶色いシャンプー・トリートメント。シャンプーは普通に泡立つし、トリートメントはヌルヌルさがないのにちゃんとサラサラになって、髪には良かったのかも。
飛んだ泡とか濯ぎのお湯でお風呂場が汚れたりもしなかったし、爪や肌も大丈夫。
・・・ただ、染まらない。染まらないのよねぇ・・・
染め効果を期待しないなら、やっぱり色粉のような色素は不安で。長い間使うと目に見えないくらいずつ爪や手や顔や項が茶色くなるんではないかと。
ちなみにレフィーネも使ってみましたが、こちらは20分放置とかするせいか、少しは染まりやすかった。
でも手袋して、専用ブラシで塗って、20分放置なら普通の染髪と変らないじゃんとか。
+ 口紅のとき【角田光代】
短編集と、多くの写真。
- 色が鮮やかだからか、ファンデーションやシャドーと違って、ほぼマストだからか。
何よりつける姿が一番絵になるからか。
つけまつげをつける姿はどこか間抜けなわけで。世代による美意識の違いなのだろうな。
- 6歳 母。
12歳 祖母を、みおくる。
18歳 初恋
29歳 結婚
38歳 母として。
47歳 娘に。
65歳 夫を、みおくる。
79歳 老人ホームで。
私の「口紅のとき」。
鏡台の時代は、もう終っているのだろう。
私が幼い頃。部屋の仕切りは開けっ放しの障子、個室の概念が殆どなかった家の中、鏡台とその前だけは母親だけの領域だった。- 自分も一度化粧品を触ってみたかった。色とりどりの小さい瓶。
やってみる?と言われ、口紅を塗った。家族の前に出た時 - ・・・・・・思いっきり笑われた。
母はその時の話を「おしゃまな少女らしい可愛い話」として暫くネタにしていたが、あの時笑った母の顔は正直恐かった。女は産まれた時から女と言うが、それは本人の問題だけではなく、幼い頃から「女レース」に参加させられているという意味でもあるのだろうな。
+ 弱者が強者を駆逐する時代 【曽野綾子】
日本国内の貧しさをアフリカの貧しい地域の人達と比べられても困るし、現代のワーキングプアを戦後のそれと比べられても質が違いすぎて困る。
世界を股にかけた活動や知識量に「凄いなぁインテリだなぁ立派だなぁ」と思う反面、時々感じるこの感覚は、「お年寄りの書いたものを読んでいる時」特有のものじゃないかなぁ。
書かれてあるダメな若い人像は若い者の全てではなく、もっと言えば私の周囲では見た事がない特殊な人達だ。多分、こういう人達は作者の時代にも余裕で居ただろう。
賞味期限偽装に謝罪を要求したことに対して、その有様がヒステリックだとか「賞味期限は野生の勘で分かる筈。かつてはそうだった」というのは論点がズレまくりで「そーゆー話でも時代でもないのだ」。言いたい事は分かるが、実際に被害者が出たこの事件に結びつけて言うのは違うと思う。大体あの時雪印の社長が叩かれたのは、単に態度が悪くて不適切な発言があったからなのに。
いいなと感じた言葉。
小説家というのは、小なる説を書くことを職業としている、だから大なる説を唱えない。
整頓と清掃を行うことは、複数の人間が強力して行うすべての研究、生産、安全の基本を支えている技術上大切な精神なのである。P78
お金がない人間がかろうじて気持ちよく生きる方法は、庭と家の掃除をすることだったというP82
「拭き細りした戸」という表現を小説から私が知ったのもその頃であろう。たいていの家の玄関は、当時は手作りの格子戸だったが、その格子を毎日毎日丁寧に吹いていると、格子の木材は木目が浮き出るほどに痩せてしまう。しかしそこにやや癇性できれい好きの家庭の空気が浮き上がるというのである。P83
時代を経て変るものと変らないもの。
全てが変るわけでもないし、変らないわけでもないから。
変らないものに対しては、お年寄りの経験や知恵は最強だ。
ああ、そうか。
私が良いと感じた部分と、違うだろと感じた部分。
例えば掃除云々の言葉が精神論ではなく「だから家庭の主婦は格子の木目が見えるほど拭き掃除をすべき」という話なら、私は聞くに堪えなかっただろう。
違うだろと感じた部分は、そんな書き方になっているからなのだろうな。お年寄りにとっては「若い者」の話は遠い精神論で語れても、若者にとっては身近すぎて具体的に聞こえすぎるんだ。
+ 東京ロンダリング 【原田ひ香】
さらっと読めて、恋愛が絡んで現代風で・・・でも心に残る本だった。
不動産物件で人死にや事故が起きた時、不動産会社は"次の住民"にだけ説明義務がある。ということは専門の人を雇い事故物件に数週間でも住んで貰えば、その物件は"綺麗"になる。
これは法的な処置だが、なんだか禊の儀式に似ている。
「僕たちの仕事がなくなるときは、日本人の考え方が変るときです。死体なんてどうでもいいかって、だれもが考えるときです」
「なるかもしれないし、ならないかもしれない。だけど、僕はならない方に賭けます。二十年やってきての実感だけど、そういうことを気にする気持ちはむしろ強くなっているような気がするんですよ。テレビを観てごらんなさい。死者が戻ってくる話とか、前世とか、そんな番組ばっかりでしょ。」
「国会でも、臓器移植法とかごちゃごちゃやってたでしょ。まだ、日本人は死体に思い入れがあるんですよ」P39
話は逸れるが、これに出てくる老年男性のロンダリング屋に親近感を持てた。
「僕みたいなものは、蝉の声さえ、人並みにはいかないんだ」
踏んだり蹴ったりで落ち込んで歩いてる時、更に鳥にフンを落とされて、なんかこんな気持ちになったのを思い出した。
奴らは弱っている生き物を見分ける能力があるような気がする。
+ 教師はなぜぼけるのか 他 【三好春樹】
社会人として「あなたはありのままで良いの。生きてるだけで素晴らしい事なんだよ」は勿論通用せず通用させず、他人や自分の能力を比べ、成長速度を比べ、どれだけ会社の役に立てるか、自分の付加価値を高めるかが生活の大半で。
私はアレが出来る、コレが出来る、だから世間的にどのくらいの価値がある。そういう考え方をしていると記憶力も体力も意欲も下り坂になる老年期、いよいよ何も出来なくなったらどう生きていけばいいのだろう?
私はハード面はお金でなんとかしようと、ソフト面での答が見つからないままだった。
特に小学校の先生がよくぼけているのです。どうしてだろうかと考えてみますとね、教師って何をやっているかというと、人間が生きて誕生して、発達しますね。発達過程を経て成人になります。それから長い長い老化過程、そして死、こういうことになりますね。学校の先生というのは発達過程に主にかかわっている。早く発達するのはいい子なのですね。遅く発達するのはよろしくないのです(略)
発達するのはいいことだ、逆に止まってたり下がったりするのは悪いことだという価値観が教師の中にあるからそれができるのですね。(略)発達するのも老いるのも、全部自然過程ですから、いいとか悪いとかいう価値判断以前の問題ですね。(略)
人間というのは昨日より今日、今日より明日、どんどんどんどん進歩していくものだ、進歩しなければだめだと思っているのが、お漏らしするようになって、物忘れするようになっていくのですから、自分を許せなくなるのですね。自分とつきあえなくなるのです。ですから劣等生に厳しい先生ほどよくぼけるという、ザマミロ的法則が成り立つはずなんですよ。P72-P75
「あなたが役に立たなくなった時、大切にされるような人になりなさい」というような記述もあるが、まだまだ社会を支えているのは、能力の研鑽に努力と情熱をかけている人達だろう。それとこれとは両立が難しい。
この事に関しても良い答えが書かれてある。
人間てものを広くとらえて、ぼけても人間、人間から援助を受けていても人間。あれも人間、これも人間。(略)
広い人間観をもつことです。たとえ狭くても、例えば「人間というのは人のために頑張らないとういけない」と思っていても、イザ自分が障害を負ったとしますね。人のためどころではなくなったとき、「ああ、そうか」といって、ぱっと広げてしまえばいいわけです。
ひとりの老人がぼけていったと言うときに、私たちはその事態をどのようにとらえたらいいのかというと、この世界には耐えられなかったということです(中略)
ですから一種の、私たちとしては後ろめたさのようなものを感じるべきではないでしょうか。たとえば知った人が自殺をしたというときに感じる、あの後ろめたさですね。P124
「痴呆は社会・家族・自分自身との関係障害だ」という言葉は真理なんだろうな・・・・・・
ママン有り難う
+ 老いの見方・感じ方【三好春樹】
筒井書房
1990.10発行
「健康保険」誌への2年間の連載をまとめたもの。
amazonの画像がないのが残念。
とにかくこの人の描くお年寄りの絵は素晴らしい。そのお年寄りの体調や今の気分、気性拘り、歴史までが伝わって来るようだ。
腑に落ちる所が多い本だった。特にお年寄りに対する幻想は私も全く同じで。
核家族の一人っ子で育ったため、老人と接する機会はほとんどなく、ホームの老人たちに対するイメージは次のようなものだった。即ち、齢をとると人間はだんだん人格が丸くなって、得に老人ホームの老人たちは、お経でも読みながら、"ありがたい、ありがたい"なんて心安らかに過ごしているのであろう、と。
ところがそれがとんでもない間違いで、人間が丸くなるどころか、どうやら個性というものは叡をとるほどに煮詰まってくるものらしく、自己主張やら八方美人やら嫉妬やらけんかやらと、我々の俗世間を凝縮したようなもので、実に興味深いのである。P95
・・・・・・そうなんだよ。誰だ、年寄は仏みたいに丸くなるなんて私に刷り込んだヤツは(笑)
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どのように老いるか、死んでいくかを考えるとき、間違った理想に振り回されることも多い。
他人様に介護を手伝って貰う事を「恥」と思う風習など・・・・・・どれだけの女性とお年寄りが、不必要な回り道をしてきたのだろう?
昔から、医者に看取られて死んでいくのが幸せであると言われてきた。だがそれは、人々が貧しく、医者が数少なかった時代に、わざわざ医者を連れてくるくらい回りの人達がその人のために熱心だったことを示していたのではないか。いわばその人を巡る"関係"の象徴が「医者」だったのではないか。P98
(老人ホームのベットの高さ)
どうしてこんなことになっているのかというと、老人の生活ケアの現場に、病院での方法論がそのまま持ち込まれているからに他ならない。病院での方法論とはすなわち、急性期の病人のための介護法、看護法である。病院での相手は病人だから何より必要なのは安静であり(略)老人の動作にとって便利かどうかという店は全く考慮されていない。P38
いやもう、その通り。古い本だが、介護と遠い所で生きている私にもとても勉強になる。
ママンありがと
+ 福田君を殺して何になる【増田美智子】
「チョーシこいた性犯罪者が、裁判向けに反省したフリをしつつ裏では被害者を罵倒する手紙を塀の中仲間に送ったり、いざ死刑が確定したら今度は"ドラえもんが助けてくれると思った"などの荒唐無稽な話を始めた。どうせ気違いのフリをして罪を問わせないための弁護士の策略なのだろう。それにしてももう少し遺族感情を考えられないのか?マトモな嘘はつけないのか?」
という風に受け止めていた。犯人に対して「死ね!今すぐ死ね!」くらいの気持ちしかなかった。
が、この本を読んで、何か少し分かったような気がする。
本は、27歳当時の"福田君"から筆者に宛てられた自己紹介の手紙から始まる。
女子中学生のような小さい小さい丸文字。
人を2人殺して死姦して死刑を求刑されている立場とは思えない場違いな内容。しかも初対面で。
「外でデートとかしたかったね(ハート)」「ぼくも美智子さん(みっちゃんのルビ)のこと知りたいな」
この後の友人に宛てた(テレビでコメントをした被害者夫に対して)
「ま、しゃーないですね今更。 ありゃー調子付いてると僕もね、思うとりました。」「もう勝った。終始笑うは悪なのが今の世だ。私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君」などの手紙。
活字にすると性格破綻した狡猾な悪人像が出来上がるのだが、直筆のものを見るとまるで出来の悪い小中学生が書いたかのようなバランスの悪さで。
"この人は自分の言葉を持てる程、発達していなかったのだな。
状況判断も出来ず、漫画やテレビで覚えた格好いいような言葉を、深く考えずに適当に口にしてるんだ・・・"
と感じるのだ。
文中何度も繰り返される「福田君の幼さ」という表現。
「すべてがちょっとずつずれている」という同級生の証言や、"手記を書け"という弁護士からの助言に対して「ファンタジー形式で書こうと思ってるんだ」とオズオズと言い出すなど数々の空気が読めないエピソードから、恐らく知能的にも発達的にもハッキリと問題があったのだろう。
そして環境的にも。
恐らく母親も似た問題を抱えていて、首を吊って自殺した。処理前の遺体を見た福田君は状況的に父親が殺したのではないかと疑いながら育って来た。
父親は日常的に母親と子供に暴力を振るう人であった。だが福田君いはく、暴力を振るうのは父親だが、問題があったのは母親の方だそうだ。ここでも一概に「父親DV!」と責める事は出来ず、例えば離婚が一般的でなかった時代に見合いで結婚した良さ気な相手が結婚生活をはじめてみると実はトロかったり足りなかったり色々おかしく、それを配偶者としてベッタリ毎日毎日一生付き合わなければいけない・・・・・・となると暴力を振るってしまう気持ちも私には分かる。
非虐待児が成人後、社会に対して適応障害を引き起こしてしまうのはよくあることだ。家庭内で虐待を避けるために身につけてきた対人スキルと、社会が求める対人スキルはまったく異なるからだ。P30
読後も「福田君を殺して何になる」とは思わない。遺族感情や、目には目を的な償いは物凄く重要だと思う。
でも今は第三者の立場から福田君を責める気持ちは起こらない。「神様が、世界が悪かったね」としか。
そういう風に産まれついてしまって、そういう環境で育ってしまって、本人に気付く能力もなく気付く機会がなかった場合・・・・・・・どこまでが本人の罪なのだろう?
被害者にも涙を呑んで「運が悪かったね」としか言えない。人間も動物で色んなのが居る。この件は天災に似ていると思う。
もし身内が福田君に殺されていたなら、死刑を願うだろう。同じ事をして返してもまだ足りないと思うだろう。それも正しい。
でも、無関係な人間としては、「被告の善悪については分からないが、実際、加害・被害の関係はあったのだから被害者親族の気が済むように捌かれるといい」としか言えない。
犯罪者や他人に危害・迷惑をかける全ての人を同等に憎いんでいた頃を経て、最近ではある種の加害者に"仕方ない面もあったのでは"と思いつつある。
もしかしたらエイリアンの仕業にしか思えないような犯罪も、知ってみたら納得出来る面もあるのだろうか?それは人として上等なのか下等なのか。
Amazonで評価が悪かった本だが、私的には弁護団に面会を阻まれて挫折するあたりのグダグダ感を含めて、かなり良い本に感じた。
+ オスカー・ワオの短く凄まじい人生【ディアス ジュノ】
- デジャーソリスなんて名前、人生でもう聞く事はないと思ってたよ。
- 主人公を取り巻くオタク事情には、AKIRA ハーロック 攻殻機動隊 etcetc・・・・・・スターウォーズやトールキン以上に日本のアニメが数多く出てくる。これぞ日本文化万歳。
舞台はトルヒーヨ独裁体制下のドミニカ。- 若い美人は発見次第権力者に献上、権力者に目をつけられたら無理矢理な濡れ衣を着せられ私刑。何だか昔のSFや少年漫画のような独裁者による無法地帯だ。
- そんな穏やかならぬ舞台で「オスカー家サーガ」とも言えそうなこの話は主人公オスカーを軸にオスカーの祖母、姉、母と巡り、時代も50年くらいは前後する。
大筋では三次元の女性と何とかして付き合いたい!脱童貞したいという思春期のオタク少年オスカーが、足掻いて足掻いてどんどん追い詰められていく話だが、そのオスカーを支える姉、姉と親子の葛藤を繰り広げる母、時代を遡って若かりし頃の母、祖母など、出て来る人間が生き生きと生々しくて熱量やドッシリとした重みさえ伝わってくる程。作者なんて男なのに、どうしてこんなに母娘間独特のの支配関係(それだけじゃないけどね)を分かってらっしゃるか。
私にとって日本はホームだし、所謂英米ものももう慣れ親しんだ庭みたいなもん。だがドミニカともなると感情表現や感覚、感性もかなりアウェイで読んでいるだけで新鮮なのも手伝って。
- オスカーにも何度か彼女が出来かけもするのだけど、読んでいる側にすればそれが愛なのか、自分の衝動の対象として妥当で現実的だと思っただけなのかよく分からず、衝動と焦りと絶望感だけが伝わって来る。
- 発情期の動物のように、いっそピュアとも言える気持ちで異性を求め、異性に認められたいと足掻く。まるでそれが自分の全存在価値であるかのように。
- 文化だとかカッコだとか人生設計だとか。そういうものを取っ払った南国の生々しさのようなもの。
私には「愛のために死んだ」のではなく「発情のために死んだ」ようにしか見えないのだが。そこに男女の性差を感じる。
ネタバレあり
(最終、最後の手紙より )
それでどうなったと思う?イボンとやつと本当にセックスしたのさ。神は偉大なり!オスカーは気に入ったと書いていた。(略)オスカーが本当に感動したのは(略)それまでの人生で彼が予想もしなかった、ちょっとした親密さだった。(略)イボンから少女時代の話を聞いたり、自分がこれまでずっと童貞だったことを話したりするという親密さ。こんなにも長い間これを待たなきゃならなかったなんて信じられないとオスカーは書いていた(待っていたなんて言い方はしないほうがいいと言ったのはイボンだった。じゃあなんて言えばいい?彼女は言った。そうね、ちゃんと生きてきた、かしら)。オスカーは書いていた。他のやつらがいつも話していたのはこれだったんだね!まったく!僕も前から知っていたらなあ!素晴らしい!素晴らしい!
- イボンの表現「ちゃんと生きてきた」が素晴らしい。
Jock(イケメンリア充)は逆立ちしてもこの境地に立てないだろう。オタク万歳。
そうそうwikiでスクールカーストを調べていたら、面白いリンクがあった。
オタクが人気者になれない理由
最近はこういった事が「発達障害」や脳の欠陥とされる風潮があるが、私には「皆が迷う時に迷わない、"自分が欲しいものが予め分かっている"ギフテッド」にしか思えない。
そういった意味で、上記リンクには共感する。