+ 逮捕されるまで 空白の2年7カ月の記録【市橋達也】
日頃から記憶している防犯カメラの場所を避けつつ逃亡する。
図書館で図鑑を見て毒のある魚を覚え、魚を釣って食料にする。
離島まで泳いで渡り、サバイバル。
裁縫道具を取り出した。針に糸を通した。鏡を見ながら、鼻に鍵を向けた。
鼻筋の横から糸のついた針を突き刺した。反対側から糸を抜いて、糸をギュッと締めた状態にして、また反対方向へ針を刺した。それを何度も繰り返した。ちょうどラーメンのチャシューの肉のかたまりをたこ糸でぐるぐる巻きに縛るようにして、鼻を細くしようと思った(P19)。
素頭が良くて運動神経にも恵まれている子なのだろう。絵も上手いし我慢も努力も出来る。そして少しネジが緩んでいる。それがよく分かった。
そして人間には優れた資質があれば善悪なんて関係ないのかも知れないと皮肉な気持ちになった。
この子は犯罪でさえも自分の経験にして糧にして個性にしてしまうのだろうか?
ある種の、過去が汚いアーティストやクリエイターのように。
+ 命のカウンセリング【長谷川 泰三】
《リストカッターに対する記述》
心の感覚の麻痺にも、同じことが言えるのです。
あなたが長時間正座をしていて足がしびれて、感覚がなくなったとします。そのとき、あなたはどうしますか?足をパンパンと叩いたりしますよね。それは感覚を取り戻すために行っているのです。
リストカットも同じことです。p25
《「助けて」に対する記述》
「助けて」という言葉の裏側には、「愛している」という意味が隠れています。
「助けて」とは、好きな人にしか言えないものだからです。「ありがとう」という言葉も同じです。p43
これは物凄いトラウマと波瀾万丈の人生を一人頑張って生き抜いて来て、「助けて」が言えずに追い詰められてしまった人の話だった。
この人から「助けて」の一言を引き出す為のセラピーの描写が延々とあり。・・・・・・まるで助けてと言うと死んでしまうかのように、その一言が言えないのだ。
私が普段忌むのは軽々しく助けてと言って人に負ぶさって楽をする要領良し。死ぬぞ死ぬぞと周囲をコントロールしようとする人。
そんな紛い物のオリジナルは、こんな人達なのだなと思った。オリジナルは大変そうなのに、元々真面目なオリジナルが「助けて」を言えなくなるのは、そんな紛い物の悪いイメージのせいもあるだろう。
作者も「助けて」が言えない人だったのだそうだ。それが10代の頃グレて巻き込まれた自動車事故で下半身不随に...「助けて」と言わなければ生きていけない身体になってしまったという。
そして新たな発見。「助けて」と口に出す事で、迷惑がると思っていた人達が、怒り出すかと思っていた人達が、とても優しい顔になり快く助けてくれたのだという。
下半身の障害を後から振り返って、神様に「この子の足を取っておこう。でなければ、この子は助けてと言えないまま生きていくだろう。それは足を失う事よりも辛い人生だ」と言われたような気がする と表現されていたのが、この本のテーマそのもので印象に残った。
日常の話に置き換えても、困っている人間に「助けて」と言われてムっとする人間なんて少ないだろう。
居たとして、自分がもっと困っているか相手が困っているように見えないか。両方ともムっとするのは無理もない。
だから生真面目な人は、自分が本当に人様の手を煩わせるほど困っているのか、自分で我慢したり努力すれば良いだけなのではないかと追い詰まってしまうのだろうな。
上の世代の「(人様に迷惑をかけるから)救急車を呼べない」というものも、教育による刷り込みはあれど、この類なんだろう。
この場合は自分の「困っている」が「助けて」と言って良いレベルかどうか、言うべきかどうかを客観的に判断出来れば解決するような気がする。
もうひとつ。「助けて」を言えない程、周囲を信じられない。この場合が「助けて」=「愛してる」の話なのかな。
+ ベーコン・生ハム製作委員会。
年末に行ったバス旅行で図らずとも新巻鮭を1本ゲットしてしまい、どうやって食べようかと迷った挙げ句「あぶく新巻鮭」で冒険してスモークサーモンを作ってみる。
結果・・・・・・スモークは上手くいったが、塩辛すぎて失敗。身が薄い所にもってきて、普通に塩をまぶしたからだろう。店で売っているようなスモークサーモンを作ろうと思ったら、相当大きな切り身を使わないとダメなんだろうなぁ。・・・・・・冷凍して鮭フレークとして利用。
塩加減は失敗したが、その時のスモークの香りがとても良かったので、燻製イイ!!と一人燻製製作委員会発足。
当たり前なのだが、本当に深~い煙のニオイがするのだ。これはちょっとお高いハムやベーコンでも、自家製に勝る物なし(言い過ぎましたか私)
響き的にソミュール液の方が上位アイテムっぽいが、ピックルの方が上らしい。
ソミュール液は塩水、ピックル液はソミュール液にハーブなどを加えた「漬け込み液」。
肉塊に大さじ3杯ほどの塩をすり込んで半日放置。
その後ピックル液(セロリ1本、たまねぎ1/2コ、にんじん1本(まぁ冷蔵庫の残り野菜だ)、ロリエ1枚、塩大さじ7、砂糖小さじ6、水350cc ビール350cc。水から煮込んで沸騰してから10分→冷ます)に10日ほど漬け込む。
その後丸一日塩抜き→ピチットシート
(干物なんか作る脱水シート) ぐるぐる巻の刑。
何日か置きにシートを変え、10日~2週間後に燻製開始。
ちなみに水が出た状態で燻製にすると酸っぱくなってしまう。これは温燻の時の水蒸気が食材についても同じ。
当初は蒸し器+桜チップスで燻製していたが、蒸し器だと高さがないため、温燻になってしまい、火が通ってしまう。
折角なので、もう1000円ほど投資して段ボールのスモーカーを購入。
「熟成」の意味がよく分かっておらず、燻製直後つまみ食い。・・・・・・マズイ(>_<)
失敗かと思いつつ、暫く置くと美味しくなってきて。燻製の香りもしっかりしていて、市販のものより美味しいハムが出来上がった。
未だに失敗したり成功したりを繰り返してるが、一番出来が良かった時はズボラして密閉せずに冷蔵庫に放置で熟成させた時。
冬の日の冷たい乾いた風の中で熟成させる時に、環境が似ているのだろうか?
主に冬の楽しみだがメインの肉塊の空きスペースで、色んなものを燻製している。
練り物と燻製との相性はとても良い。
+ やめられない ギャンブル地獄からの生還 【帚木蓬生】
外国にあるのは、スロット台とルーレットやその他のギャンブル台です。その統計は、日本を除く全世界で250万台です。なんと日本の半分の台数なのです。
(中略)
2004年度の高額納税者上位100人のうち、12人がパチンコ・スロット店や、その機器の製造メーカーの関係者でしめられています。p114
他、脳内物質と依存症の関係などにも触れてあるが、パチンコは疎か依存症が知り合いレベルでも居なくてピンと来ないので、正直この本は、他の精神障害などに置き換えて読んでしまった。
海外での自助グループの話がとてもいいなと思った。
アルコールや薬物、ギャンブルなどの依存症について、「治すためには本人が心を強くして我慢するしかない」と思ってしまうのは国民性だろうか。
海外では「ギャンブラーズ・アノニマス」というギャンブル依存症者のための自助グループがあるのだそうだ。
自助団体というと日本では聞き慣れないが、デスパレートな妻達、SATCなど洋ドラではちょくちょく出て来るアチラではメジャーな存在のようだ。
あれを見て地に足がついてるなと感じた。週一回しか会わないエリート医者や非・依存症の人に、あるべき論をされるのとは違い(そもそもそれが出来ないから依存症やってるのだ)、経験した人からサポートして貰える。
上から垂らされる蜘蛛の糸を登るのは孤独だし筋力がいるが、横並びの仲間と一緒に登っていくのなら何だかいけそうだ。
また、体験談を読んでいると、依存症患者以上に、その配偶者、親、子供の受けるダメージは大きく、自殺や人生を変えてしまうものも少なくない。 本人の「今度こそ止める」を信じ、裏切られ、本人の逆ギレを真に受け、自分を責めたりもするだろう。スリップされた時の裏切られ感もハンパないだろう。人間不信にもなるだろう。
そういう人達が支え合う自助団体も存在する(自死遺族の自助団体に似ているように思う)。 「海外なんかでは」という言葉は嫌いなのだが、この辺りは羨ましい。どうして日本では自助団体というものが流行らないのだろう。
一緒にするのは不謹慎だが障害者に対する受け止め方の差異に似ているのかも知れない。
海外ではハンディキャップや罪を犯した、一般的に良くない状態にある人が努力することが普通に「カッコイイ」と受け入れられている。 日本では、そういったものはまだ建前上は「がんばってるね」「えらいね」と言われるだろうが、本音では努力以前に弱点をカミングアウトした時点で強く強くレッテルを貼られてしまう。もしくは「元、極道の**」のように変に過大評価した神話にして歪めて伝えてしまう。
だから自分(自分の身内)が依存症患者である事を隠すのだろう。だから自助グループなんて言ってる場合じゃないのだろうな。
+ 死刑でいいです --- 孤立が生んだ二つの殺人【真下周】
- 母親殺し・姉妹殺人事件の犯人、山地悠紀夫を通して発達障害者の支援というテーマで書かれつつも、筆者自身も述べているように山地が本当に発達障害なのか環境による人格障害なのかがそもそも定かではない。彼の生育環境は、それほど特殊だ。
だからこの本が発達障害に絞らずに
「貧困・無縁・環境など様々な原因で、生きること・社会参加が難しい情況になっている人間を、孤立させてはいけない」という話であれば、とても納得いくのだけど。
山地悠紀夫が母親を殺したのは16歳の時だ。
母子家庭で貧しいのに買物依存の母親。借金でガスや水道さえ止まる日々。山地の母は未成年の被告が新聞配達をして稼いで貯めた金まで使い込み、出来たばかりの彼女に無言電話を続け。しかも口下手で、被告に対する謝罪どころか十分な説明や言い訳さえ禄にしなかったという。
ただ貧しいのではない。圧倒的な孤立と、母による裏切りの日々。
この環境で育ったら、多くの人は普通には生きれないのではないだろうか・・・・・・
寧ろ少年院の精神科医が、何度も何度も「母親殺しに対する反省」を被告に求める事に違和感があった。
確かに普通なら「ああ、ここは反省してるって言うべきだろうな」と分かるだろう。しかし変な言い方だが人一人殺す気持ちと罪深さに比べれば、反省したフリで得られるメリットなんて軽すぎると思うのはノーマルな反応ではないだろうか?
「反省したフリをすれば周囲の心証もよく、罪が軽くなるだろう。じゃあ反省したフリをしよう」「取りあえず反省したポーズを取っておくべきなんだろうな」なんて口先のウソで言い逃れしたい程度の覚悟で、人を殺せる方が恐ろしい。
空気の読めなさや判断力のなさは、自分や周囲の人間や世界に対する未練や執着のなさと、特殊な育ちによる経験の少なさでもあるのだろう。
上司に掌を返されたらダメになるのは、誰でもそうだろう。キレやすいのも「ちょっと我慢してみよう」と思える程の成功体験や信じる心がないなら当然だ。
弱者ほど、守ってくれる人が居ない人間ほど、何かをされたら即やり返さなければいけないだろう。待てるのは恵まれた者、信じることが出来る者の特権だ。
周囲に感心を持たない子供時代・・・。でも、教師や同級生に苛めを受けていたなら、周囲への感心を表さないのは寧ろ正常ではないか?
発達障害とのリンクについては随所に「?」を感じながらも、社会や家族の目に見えない被害者が歪みや鬱屈を抱えて、ついに加害者になってしまう・・・という事について、考えさせられた。
被害者にとっては関係のない事だとは思うものの・・・・・・。
+ 東電OL症候群【佐野 眞一】
- 最初の半ページを読んで「あれ?」と思った。
その後も「あれ?」は続いた。山田悠介を読んだ時の感覚に近い。宮部みゆきをを読んだ時、その感覚の10倍希釈を感じるアレだ。
どうして初っぱなから、この事件と911事件をコッテリと絡めた私説が続くのか。世界貿易センター関連の単語が何度も繰り返されるのか。- 「淫靡なネオンサインがきらめくこの町は、戦後のダム建設によって水没した飛騨地方の村の住人たちが東京に移住してつくりあげたものだった。
彼女はダム=電力=東電、ダム=水没=円山町という、現代史の光と影をはらんだ二つの連想の交差点にたたずみ、この謎が解けるものならといてごらん、とでもいうように私を手招きしているかのようだった(P9」 - これらはかなり飛躍した作者の見立てであって、ノンフィクションとしては本全体の信憑性や作家の姿勢を疑われてしまうレベルではないか。
- 思い入れの余り「私にとっては実の妹のようなもの」という記述もあり、なんというか距離感がおかしい。
- それに文章や表現が無駄にセクシャルであるのも鬱陶しかった。
- 売春婦が性交の後に殺された事件だ・・・・・・セクシャルになるのは仕方ないのだろうが、事実のエロと筆者のエロフィルターの差は読んでいるものにはハッキリと分かる。
そして「(裁判中に)耳が勃起した(耳を疑った とか耳をそばだてたの意味だろう)P29」で、「ああ、読まなくていいな。この本」と勝手ながら思ってしまった。「今の私にとっては・・・・・・」かも知れないが。
- 何だか出がらしのお茶を飲んでいる気分で、もう良い成分はないのに無理に熱湯で量を増して出そうとしてる。調べてみたらこの前に「東電OL殺人事件」というものが一作あり、そちらの評価が高いとのこと。
「東電OLシンドローム」なのは、誰よりも作者なんだろうな。
+ 秋葉原事件―加藤智大の軌跡 【中島 岳志】
- 秋葉原無差別殺傷事件の加藤被告を子供の頃から事件を起こすまでの家庭環境、友達、職場での振る舞い、ネット上での書き込みなど、とにかく調べ尽くした一冊で、とても興味深かった。
掲示板で煽られたから抗議のつもりで犯行に及んだとか、作業着がなくなっていたからキレて仕事を辞めたとか・・・・・・それは飽くまで引き金であって、もしその日作業着が無くなっていなかったとしても、ネット上のトラブルがなかったとしても、同じ程度の事で、いつかは犯行が起きただろう。掲示板や作業着に罪はない。そのことを筆者は
「引き金と弾は別」
と表現していて、とても的確だと思う。
加藤という人が、常時弾が装填された状態にあったという事が問題なのだ。
思っていた加藤像と、この本の中のそれとは少し隔たりがあった。
丁度社会的にも非正規雇用者の問題が上がっていた時期で、加藤が非正規雇用で弱そうな風貌だった事から、"元ガリ勉、友達も居ない変人弱者が派遣切りに遭って、大量殺人をしでかした"という視点からの報道さえあった。
でも実はこの加藤は体育会系と言っても良いんじゃないかと思うほど運動神経も良く、どの職場に行っても取りあえず真面目さを評価されて職位を上げていく。
子供時代の学力は教育ママの賜物としても、運動神経は持って生まれたものだ。少し変わり者ではあったようだが、その後の人生を見ても基本能力の高さが伺われる。
苛められっ子というわけでもなく、親友も数人、行く先々でそれなりに友達も出来る。この年齢の男性なら十分恵まれている数だ。か弱いオタク青年ならキレても多分ひっそりと自殺して終りだっただろう。行動力が高かったから大量殺人になったってしまったのかも知れない。
酒鬼薔薇聖斗の親が本を出した時に「これなら仕方ない。彼は家庭環境が異常だったんだ」と言った人が居て、私は全く意味が分からなかったのだが(ごく普通の家庭に思えたのだ)、加藤の家庭環境は分かりやすい。加藤の母は虐待の負の連鎖を解消しきれていない人だった。
「不満が溜まると直接言葉で相手に伝えるのではなく、不満を持っていることを相手に知らせる為に行動を起こし「アピール」することを繰り返してきたという(p13)。
これは彼の母によって育てられた社会スキルなのだろうな。
こちらの言い分を絶対に聞いてくれない人、ごり押しする気満々な人・・・・・・というか関係性は確かにあって、幼い頃からその下だと「自分の意見を言ってみる」「相手を理解する」「相手に理解して貰う」という発想そのものがなくなるのだろう。
一方的に言う事を聞かせるだけの相手の下では、態度で「アピール」し、発破をかけるしかないのだろう。
・・・・・・これって誰もが少しは身に覚えがあるのではないだろうか?
ただ、加藤のアピールは「伝える手段」から一人歩きしてしまって、意味をなさないものも多い。
たとえば交通整備のバイトで、トラックが自分の指示に従わなかったからといって「それなら交通整備は要らないだろう」と持ち場を離れてしまう。
トラック運転手はその場にはもう居ないのから、相手にアピールが伝わる可能性はゼロだ。
本人でさえ、その「アピール」を伝える手段だとは思っていなかったのではないだろうか。そもそも相手に自分の気持ちが伝わるとさえ、信じていなかったのではないだろうか。
本の最後の方、犯行の日に近づくにつれ、彼はひとつひとつ関係を、自分の選択肢を、自分で潰していくように見える。
顔を合わせづらい人が増えて、帰る場所がなくなって、出入り出来ない場所が増えていく。
そうこうするうちに、多くの「普通の生活をしていたら成長していた筈の部分」が出来てしまい、さぁ普通に生きていこうと思った時、ハードルが上がりすぎて復帰出来なくなってしまっていたんだ。
どこかで終わりにして、帳尻を合わせたかったのだと思う。
第二の○○を出さない為に・・・・・・などという動機で、この手の犯罪の手記を読んだ事はない。
それはとても深い理解が必要で、可能だとは思わないからだ。
寧ろ表面的な「加藤モドキ狩り」という陰湿な遊びが出来上がってしまったり、潔癖症な人達が歪な世の中を作りそうで。
加害者の人権を守る会や死刑制度廃止団体の類で、「加害者だって社会の被害者だ」などの主張がある。
私は短絡的な人間なので、「被害者にだって人権はあったんだよね」と、加害者に制裁を加えたがる方だ。
でも、なんだろう。
遊ぶ金欲しさの殺人や、快楽犯罪、見苦しい裁判をする人達に比べて、加藤被告の生きにくさが伝わって、そこまでの憎む気持ちが生まれなかった。
+ 日本人の一大事【佐藤愛子】
- 祖父母世代と近くで暮らしたかったなぁと思った。
こんなおばあちゃんが近くに居て欲しいなぁ。- 親だって実はそれほど多くの事を知っているわけではない。
自分が知ってる全ては更に狭く、たかだかここ30年の経験・善悪だ。
賢者は歴史に学ぶって言うもんな。
「佐藤愛子から現代人へ、歯に衣着せぬ一言」
- そうそう!と超同意が1/3、そうなのねと素直に聞けることが1/3、そりゃ違うよと意見したくなる事が1/3。
「そうそう!」と思う事は、既にみんなが「そうそう!」と言ってる事かな。2004年の本だけど、2004年にだって斬新ではなかったと思う。
- たとえば子どもの自主性を大事にする!と言って、3つ4つの子どもに親がお伺いを立てるのは変なんじゃないかとか。何故殺してはいけないのかが分からない子どもに対する苛立ちとか。
今となっては寧ろ、万人が「そうそう!」と思える事が、何故そうならないかの方が問題だし、気になるのよね。- それこそ、愛子さんの言う「日本人をダメにしようとしている勢力が働いているに違いない」というのは大いに同意。
- と同時に。
以前「他人を見下す若者たち【速水 敏彦】 」を読んだ時も思ったけど、大学教授や執筆家などその道の専門家でさえ、時代に付いて行くというのは大変みたいだ。自分の産まれた時代から自由で居るということはとても難しいみたいだ。
- 佐藤愛子でさえ、現代を理屈で評価する割には自分の世代にはたっぷりの思い入れと愛由来の偏見を以ってアンフェアな評価をしているように思う。
- 世の中は変わっていくから、昔の良い風習と悪い風習が忘れ去られて、新しく良い常識と悪い常識が発生する。
- だけど年齢がいくと、新しい良い常識にはついていけない。そのくせ昔の良い風習が通用しなくなっているのは感じる。新しい悪い常識は嫌でも目につく。
例えば携帯電話を、パソコンを「今のものにはついていけない。電話で十分」と言っちゃえる人には、それがあって当たり前、それがないと生きていけない今の時代を昔と比べて、意味のあるジャッジをすることは出来ないと思う。
「昔は良かった」「今の若いものは」というのはそういう事なのだろう。- 私は20代の頃から「今の若いものは」が口をついて出ていたが、それはあまり口に出す言葉じゃないのかも知れないなと思った。
経験則でしか言えない事もあるから「だってそういうものだもの」という言い方も分かる。でも彰かに理解不足な事も多いもの。- だけどそれだって、言ってもらわなければ気付かない事で。
そんなこんなを含めて、今理解出来なくてもそのうち理解出来る日が来るかも知れない事も含めて、とても納得出来る残りの半分も含めて、やっぱり上の世代の人の言うことは大事なんだよな。
あー、おばあちゃんたちともっと一緒に居ればよかったなぁ。
色んな世代の人が交流する場というのは大事だよね。
+ ばいばいWindowsXP
2010年の8月に自宅用PCをwindows7にして。
仕事先で使うMyPCも徐々に7になっていき。
今日、ついに最後の一台がXPからwindows7に。
なんだか寂しい。
ホンマお世話になりました。